小金井書房ブログ

平安、孤独、楽しさ、をテーマに

山奥でのできごと

                             

 

 そう。あれは、サッカーの日本代表チームにとって、初めてのワールドカップ出場がかかった試合が放送されるという日だった。

 テレビ放送は深夜に開始することになっていたのだが、世間では当日の朝から、いや、もう何日も前からその話題で持ち切りだった。

 私がそれまで体験したことのない熱狂と一体感が、日本中に激しく渦巻いていた。

 ところが、元来天の邪鬼な性格である私は、サッカーというものに興味がなく、また、そういった騒がしいことをとても疎ましいと感じる人間だった。

 その日はどうせどのテレビ局もその話題ばかりだろうし、もし深夜いつものように寝ていたら、試合を観ているマンションの隣の部屋の住人が叫んだり大声を出して目が覚めるという、不愉快極まりない事態が起きる可能性がある。

 実際に、私の隣人は以前にも何度かそういうことをした前科があるのだ。

 そこで私は、その日、世間の狂熱から身を守るために、前もって東北の深い山里へ行くことに決めていた。喧騒から離れて、大自然の中で心ゆくまで静けさの中に身を置きたいと考えたのだ。

 

 そして、その当日。

 事前に予約を入れておいた地元の旅館には昼過ぎには到着して、午後はその付近の山の中をじっくりと散策することにした。

 

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 その辺りは、今朝まで私の周囲にあった世間の喧騒などすべてが幻であるかのように、いっさいが静かで、遠くから鹿か何かの鳴く音くらいしか聞こえてこない。

 私は、望み通りの静寂を手に入れることができて、喜びに震えた。

 旅館から少し離れた場所にある山へ足を踏み入れてみると、そこには道らしい道は存在せず、太古の昔から手つかずのままのような自然が存在していた。

(こんな所が現代の日本にまだあるとは……。

何てすばらしい場所なんだろう。)

  この山の中にいるうちに、だんだん、自分とこの大自然の間の区別がなくなって、私のつまらない自我など消えてしまったかのような感覚になってくる。私の気分は、ますます高揚した。

 そして足取りも軽く、その山の中を、どんどん奥へ奥へと分け入っていった。

 

 

 どれぐらいの時間歩いただろうか。

 あまりの心地よさに我を忘れて、私はいつしか山深くにまで入り込み過ぎ、戻る道を見失ってしまった。

 山の日暮れは早い。腕時計を見るとまだ午後四時過ぎだというのに、空が急に暗くなってきた。

 このとき、私は初めて、大変なことになったと直感した。

 もし今日、このままこの山から帰れなくなったらどうする……。

 そうなったら、この山の中で一晩明かすしかないのだろうか。

 急激な焦りを感じて歩きを早めたが、道がわからず、いっこうに山から出られそうな気配がない。

 それでも、恐怖を払うように闇雲に歩いていたら、森の中にぽっかりと開けた小さな広場のような場所に出た。

 私は、とりあえずそこに座り込んで休むことにした。

 そして途方に暮れた。

(こうなったら、この場所で夜を明かすしかないか。見通しがいいから、他の場所よりは多少は安全だろうか。

でも、ここで一晩も寒さに耐えられるだろうか……)

 もうすぐ冬という時期だった。山の夜は、相当な寒さに違いないだろう。

 

 と、広場の奥にある茂みの向こうから、人影が現れた。

 小さな老婆だった。

(こんな所に人が……? 

助かった!)

 私は慌てて起き上がり、老婆の元へ駆け寄って、必死に自分の状況を説明した。

 すると老婆は、

「それは大変じゃったのう。今晩はうちに泊まっていけばええ」

 と笑い、口の端から舌をちろりと出した。

 それから、この近くにあるという老婆の家へと私を案内してくれることになった。

 私は、予想外に人と出会うことができたことに、心から安堵した。

 

 ほどなくして、山の奥深くにある茅葺の家にたどり着いた。まるで、昔話に出てくるような雰囲気の家である。

 聞けば、老婆はもう長いことこの山奥で一人で暮らしているのだという。

(こんな不便な場所に、たった一人だけで住んでいるのか。

色々と大変だろうな。)

 家の中には囲炉裏があり、火が入るととても暖かかった。老婆はそこで山菜と猪の肉の入った鍋を作り、ご馳走してくれた。

「食べるがええ」

 そういって私に茶碗を渡し、口の端からまた舌をちろりと出した。

  鍋はとても美味かった。

 私は礼を言い、老婆の言葉に甘えて、一晩ここに泊めてもらうことになった。

 

 

 深夜。

 

 妙な物音で目が覚めた。

 どこからか、シャー、シャー、という何かの音が聞こえてくる。

 私は身体を起こして部屋のふすまを少しだけ開け、奥を覗いてみた。

 火のついた囲炉裏の傍で、老婆が背を向けて何かをしているのが見えた。

 

「シャー」「シャー」

 

音は、その老婆の場所から聞こえてくる。

 

(ま、まさか、これは……)

私はどこかで見覚えのある昔話を思い出していた。

(これは、包丁を研いでいる音じゃないのか……?

あの老婆、まさか正体は山姥だったか!?

私を殺して食べようというのか……!?)

 私は、老婆が口の端から舌を出す妙な仕草を思い出した。単なる癖だと思っていたが、考えてみれば何か妙だった。

 急に怖ろしくなり、全身がぞっとした。

 その時、気配に気づいた老婆がくるりと振り返りこちらを見た。

 老婆は一瞬私を見たが、また体を前に向き直した。そして、床に置かれたラジカセを聴きながら、

「ょっしゃー」

 と低く小さな声を吐いた。

 

(えっ!?)

 

 なんと、先ほどから聞こえていた奇妙な音は、老婆がラジオで今夜のサッカーの試合中継を聴きながら、「ょっしゃー」と歓喜している声だった。

 ラジオから、「最後は、延長Vゴール、岡野ッ!!」という実況の叫び声が聞こえてきた。

 どうやら日本が勝利したらしい。

 

 

 翌朝、礼を言い、私は山を下りた。

 

 

 

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