小金井書房ブログ

孤独、哀愁、静けさ

スポーツの勝利もオリンピックのメダル獲得も観ている人とは関係ない

 

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(佐藤密『刺激から離れる生活』 「第4章 目に見えやすい刺激」より抜粋)

 

スポーツ観戦、応援の醍醐味は感情移入

 スポーツというのはエキサイティングであり、自分がプレイするのはもちろんのこと、観るのが好きな人も世界中に大勢います。

実際にプレイしている選手だけはでなくて、観ている人までそこまで熱狂し楽しめるのはなぜなのでしょうか。

 その大きな要因として、「感情移入」というものが大きく関わっているように思います。

例えば、オリンピックのようなスポーツの世界大会でそれを観ている人が選手を懸命に応援するのは、多くの場合、選手と自分が同じ国の人間だからです。

他の国の選手と違って、その選手を自分と近い存在として感情移入するから応援するのであって、その選手を言わば自分の身内のように感じているということです。

 逆に、人は感情移入していないものに対してそこまで熱く応援する気にはなりません。例えば、オリンピックでエジプトの選手を熱狂的に応援する日本人というのはあまりいないでしょう。

それは一般的に日本とエジプトの接点が少なく、エジプトの選手に日本人が感情移入す る要素があまりないためです。

 そのように、私たちは対象に感情移入することによって、そのチームや選手が勝てば自分の身内が勝ったように嬉しく感じますし、その選手が負けると自分の身内が負けたかのように悲しんだり悔しく感じたりします。

 

勝利に喜び負けに対して怒る観戦者の深層心理

 ところが、この感情移入というものが時に勘違いを生んでいると感じます。

 当たり前な話ですが、そもそもスポーツで勝ったり負けたりするのは当事者である選手であって、それを観ている人ではありません。

どんなに観る人が感情移入したところで、客観的にはその選手と観ている人とは何の繫がりもありません。

その選手が観ている人と同じ学校出身の選手だろうが、それが自分の地元に居を構えているチームだろうが、本当は選手と観ている人とは何も関係がないというのが厳然たる事実なのです。

 それにもかかわらず、多くの人がスポーツの大きな大会で自国の選手やチームが勝つと「我が国の誇りだ」と興奮して大喜びしたり、負けると怒って選手を強く批判したりしている姿は、ちょっと変ではないかと感じます。

なぜなら繰り返しますが、選手と観ている人との間には本当は何の繋がりもないからです。

 よくスポーツでは、選手に本気で怒って野次を飛ばす観客がいますが、正直なところ選手からしてみれば「人の仕事に対してどうこう言ってないで、自分の仕事や人生について心配したらどうか」という思いもあるのではないでしょうか。

私が選手だったらそう思うかもしれません。

 

 このように、本来自分と何の関係もないはずの選手の勝利や敗北に対して、観る人が誇りに感じたり怒ったりするのは、実はその選手が勝った時にその勝利に便乗して自分も勝った気分を味わいたいし、選手と同じ国の人間である自分も優秀だと思いたいからなのではないでしょうか。

そのように他人の勝利にタダ乗りする行為は、当事者である選手のように苦しい鍛錬や努力も必要ありません。手軽に自分たちも勝利の栄光の気分を味わえるので大勢に人気があります。

 しかしそれは錯覚に過ぎず、当事者ではない自分は選手と違って何かを成し遂げたわけではなく、何も成長したわけではありません。

 ですから、スポーツでどこかの選手やチームが優秀な成績を収めた時、それは選手にとっては努力が報われた喜ばしい出来事でしょうが、それを観ている人たちが勝った気分になったり誇らしい気分になったりするというのは、どうも少し違うのではないかという気がします。

それはしょせん他人事、他人の人生における出来事に過ぎないのですから。

 

 

 

刺激から離れる生活: 苦しみを減らす。心を安定させる

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