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小金井書房ブログ

平安、孤独、楽しさ、をテーマに

本『長考力』に見る佐藤康光棋士の人柄の魅力

 

長考力 1000手先を読む技術 (幻冬舎新書)
 

 

「本の内容と佐藤康光氏の魅力」

『長考力 1000手先を読む技術』(幻冬舎新書は将棋棋士佐藤康光さんの著作です。

『長考力』と題されてはいますが、長考について書かれているのは本書の中の一部分ですので、本のタイトルと中身は厳密には一致していないかもしれません。

しかし、佐藤さんが将棋について考えていることや、現役の棋士から見た将棋界の全体的なことがわかる本であり、将棋に詳しくない方でも楽しめる本だと思います。

 

本書を読んで、この本の一番の特徴は佐藤さんの人柄の魅力にあるのではないかと個人的には感じました。

この本では、テレビの将棋番組などで見かける印象と同じく、温厚な語り口が印象的です。

本書では「1秒間に1億と3手読む」とも形容される佐藤さんの将棋の戦術についてのマニアックな話よりも、佐藤さん自身や周囲の棋士たちの人間的な部分の興味深いエピソードが多く紹介されています。

例えば、同じ将棋棋士先崎学九段のエッセイで、「佐藤康光は将棋に負けると布団をかぶってわんわん泣く」と書かれたことを紹介するなど、プライドの高い人だったら絶対に書きたくないようなことも数多く書かれていて、その飾らない人柄に魅力を感じました。

 

佐藤さんは2011年に日本将棋連盟会長だった米長先生から依頼されて棋士会会長に就任されたそうですが、この本を読むと納得がいく思いです。

 

「プロ棋士達の緊迫した勝負の世界」

ただ、本書ではソフトな語り口ながらも、40代という年齢であとどれだけ将棋を指せるか、残された時間で何ができるのか、という残りの将棋人生をかなり意識されており、勝ちを追求する勝負師としての佐藤さんの一面を感じました。

 

棋士というのは通算勝率が6割で一流。6割5分で超一流と言われるそうです。ですから、一流の棋士でも4割近くは負けていることになります。

それほど力が均衡していて簡単には勝てない厳しい世界。佐藤さん自身も、2010年にA級から降格。40歳になりB級1組に落ちるという経験をされています。

そんな中で勝率を上げるために、棋士のみなさんはものすごく将棋の研究をされています。

研究の方法も人それぞれで、佐藤さんは実家の研究部屋で仲間と研究会を開いているそうで、研究用のマンションを借りるトップ棋士もいれば、自宅で若手同士で研究会を行う棋士もいるそうです。

 

以前、他の棋士の方のインタビューを何かで読んだのですが、その方の話によると将棋というのは一対一のスポーツ、いわばボクシングのようなもので、負けたときの精神的ダメージというのはものすごく大きいのだそうです。

何しろ、負けたことを他の誰かのせいにすることができず、その責任は100%自分が負うことになるので、負けたときは自分の全てが否定されたような、それほどの激しい落ち込みを味わうことがあるとのこと。

 

何年か前にテレビで放送されていた佐藤さんのドキュメンタリー番組では、対局中に緊張が高まると咳が出る癖があると話していて、撮影中にものすごく咳き込み、トイレに何度も行ってはえずく様子が映されていました。

やはり、対局におけるプロ棋士の緊張、プレッシャーはかなりのものがあるようです。

 

棋士たちの人間味あるエピソードの数々」

そんな緊張感のある世界だからこそ逆に、この本で紹介されている佐藤さんが対局時に経験した数々のトラブルも面白味を感じます。 

 

あるタイトル戦では、用意してもらった格式ある旅館に大の苦手なゴキブリが出て、「これも試練だ。こんなことに打ち克てないようでは勝負に勝てるはずもない」と自分に言い聞かせたものの一睡もできず、その対局は負けてしまったそう。

テレビ放送される地方でのタイトル戦では眼鏡のつるが折れてしまい、テープで補強して対局を続けたものの、それが気になって負けてしまったり。

また、封じ手の時、糊で封をしたあとに「同じ封筒に間違って2通入れてしまったのではないか」と不安になってその夜は眠れなかったなんていうこともあったそうです。

 

ときには対戦相手から佐藤さんにクレームが来るなんてことも。

あるときは扇子の開閉の音がうるさいと指摘され、またあるときには秒読みの時間をオーバーして指していると相手から抗議を受けたので、反省して少し早めに指してみたら慌てて駒を落としてしまったり。

そんな少し微笑ましいような(当事者はそれどころではないでしょうが)、プロ棋士たちの人間的な一面も紹介されています。

 

「印象的だった話」

この本で個人的に印象に残ったことが二つあります。

 

一つは久保利明棋士とその師匠の淡路仁茂九段の師弟についての話です。

本書によると、将棋界の師弟の関係というのは通常あまり濃密なものではなくて、師匠が弟子に手取り足取り教えるようなことはあまりないとのこと。

師匠は弟子を基本的に一人の大人として扱い、突き放して接することが多く、陰から弟子を応援してはいるものの、大事な対局でもわざわざ観戦に来るのは少ないのだそうです。

そんな中で、久保棋士の師匠の淡路九段は弟子の対局をかなりの頻度で観戦に来て、常に弟子に肩入れしているそうです。

明らかに久保さんが不利な局面でも「なんか手がないやろか」と一生懸命勝つ可能性を探している。弟子の勝ちを一途に祈っているその姿に、佐藤さんも少し胸が熱くなったと書かれています。

 

もう一つ印象的だったのは、この本に登場する羽生善治名人です。

将棋の棋士にも色々なタイプがあって、プロでもそれぞれ得意なことと苦手なことがあるらしいのですが、佐藤さんによると羽生さんは万能型で、苦手なことがないのだそうです。

また、将棋会館のトイレで手洗い場に飛び散っている水滴をタオルで綺麗に拭く羽生さんの姿を佐藤さんが目撃するなど、本書の中で何度か羽生さんについて触れているのですが、棋士としても人間としても一流という様子で語られていて、佐藤さんの羽生さんに対する強いリスペクトの念を感じました。

 

久保棋士の師弟関係の話にしても羽生さんのエピソードにしても、そのエピソード自体興味深いのですが、それらに着目している佐藤さんの人柄も魅力的だと感じました。

佐藤さんは体力維持のためと将棋のテンションを高めるためにゴルフをやっているそうです。本の中ではゴルフやサッカーを例に将棋のことを説明してくれる箇所が何度かあって、それが腑に落ちてとてもわかりやすかったです。