帰りの電車の中。今日の昼休みの、智佳ちゃんや同僚たちのなごやかな風景のことを、なんとなく思い出す。
周りの人たちを見ていると、時々思う。自分はどこか、変なんじゃないだろうか。そんな感覚が、いつもどこかにある。
思えば、子供の頃からそうだった。親からいつもひどく叱られていたとか、そういうわけではない。ただ、いつも、自分で自分にそう感じていたのだ。周りの人はみんな正しい答えを知っているのに、私だけがそれを知らないような、そんな感覚。
私は子供の頃、クラスの女子たち特有のグループになじめなかった。彼女たちの多くは、女子というものに何の違和感もなくなりきっていた。流行の話題に敏感で、流行の服を着て、異性に関心が高い。
一方、私は同じ女だけれど、彼女たちのように、流行を追うことにも男の子にもあまり興味が持てなかったし、自分が「女子」になることにも馴染めず、違和感を覚えていた。
それに、人と話をすることも苦手だった。コミュニケーション能力がないのか、人と話をしても、会話を続けることができない。これは、今でも変わらない。
職場でもどこでも、他の人たちがやっているように、自然に笑顔を作ることもできず、せいぜい、なるべく愛想が悪くないようにと気をつけているくらいしかできない。だから、昔から人と会ったり、話をしたりするときは、何となく怖くて落ち着かない。
そのかわり、一人で気ままに時間を過ごしたり、本を読んだりしている時間は好きだった。本を読んでいれば一人で楽しく過ごすことができたし、お金がなくても、図書館へ行けば本が沢山あって読むことができた。
そんな、自分のぱっとしない過去をなんとなく思い出しているうちに、電車が駅に到着した。
今日も、いつもと同じように家までの道を歩き、家に着いたら、いつもと同じように、着替えをして食事の準備に取りかかる。昨日と違うのは、作る食事のメニューだけ。今日は、鯖の塩焼きと、豆腐とねぎの味噌汁と、コールスローサラダ。
キャベツを千切りにしながら考える。だいたい、私は今もこの年齢で結婚もしていないし、しようという努力すらしていない。これがまず、世間の一般的な女性とは違うだろう。私の周囲の人や同年代の人たちは、みな既に結婚しているか、していない人も婚活というものをしたりして、積極的に努力をしているようだ。それなのに、私はなぜしないのだろうか。
わからない。
ただ、どうしても結婚したいとは思えないから、そういう努力をしようという気になれない。
結婚をしたくない、と頑なに拒否しているわけじゃない。でも、かといって、じゃあ、結婚をしたいのか問われると、返答に困ってしまう。できれば、結婚はできたらいいなと思う一方で、結婚したいと思う相手もいないのに、無理にしなくてもいいじゃないかとも思う。
口では言わないけれど、両親はひどくがっかりしているだろうな。一般的な親なら、ある程度の年齢になった娘には、結婚して欲しいとか、孫の顔が見たいとか思うはず。その点については、ただ申し訳ないと感じる。
私も、この年齢で独身でいることには、少なからず罪悪感はある。私自身は、結婚しないことがそれほど悪いことだとは思っていないけれど、主に、親や社会の何かに対しての、後ろめたい気持ちだ。
こんなとき、よく思う。もし私が美人だったら、また違う人生だったんだろうな、と。美人で魅力的だったら、自分が結婚したいかどうかなんて悩む暇もなく、男の人から積極的に近づかれて、その後も自然と発展していくんだろうな。現に、そういう人を何人も見たことがある。
パートナーがいない。子供もいない。それどころか、友人すらまともにいない。もう若くもなくて、そんな私みたいな人たちはみんな、どうやって過ごしているんだろうか。なかなか同じ境遇、同じような悩みを抱えている人に出会う機会がない。
たまに、災害のことが頭をよぎる。一人暮らしだから、いざというとき助け合う人もいない。だからそういう時は、一人だと心細いだろうな、と。
それに、今はこれでいいかもしれないけれど、老後はいったいどうなるのだろう。二十年後、三十年後も、今と同じように、マンションで一人誰にも知られずに暮らし、誰にも知られないまま、孤独死でもするんだろうか。
こういうことを考え出すと、きりがなくなるし、不安でおかしくなりそうになる。だから、食事を済ませたあとすぐ風呂に入って、無理やり考えごとを切り上げた。
(『早坂さんは時代になじめない』
【短編集『静かなひとり暮らしたち』収録作品】より抜粋)