帰宅する人たちの混雑に紛れて駅を出ると、じっとりとした空気が、肌にまとわりついてくる。十月初旬でも、まだ秋とはまったく感じられないほど、気温も湿度も高い。 マンションまでのいつもの道を歩く。スーパーに寄って、食材や必要なものを買う。スーパーを出て家の前に到着した頃には、うっすらと汗をかいているのを感じた。
(中略)
どんなに忙しくても、仕事で疲れていても、料理はなるべく自分で作るようにしている。外食で済ませたり、弁当やお惣菜を買って食べることには、何となく罪悪感がある。
世間になじむ努力はできないくせに、変な部分では妙に真面目なところがあると、自分でも思う。が、これは性分だから、どうしようもない。
手早く料理を作り終えると、盛り付けしたものをお盆にのせて、キッチンから部屋に運ぶ。そして、テレビのNHKで、今日の主なニュースを見ながら食べる。
食事が終わると、今度は風呂を沸かして、その間に食事の後片付けをする。それから風呂に入る。
風呂から上がったら、髪を乾かして、洗濯機から洗濯物を取り出して、部屋に干す。それが終わると、ようやく自由な時間となる。
ニュースは食事のときに見るけれど、それ以外では、テレビをほとんど見ることがない。たまにNHKでやっている美術とか教養系の番組で、興味があるものを見たりする程度だ。映画もほとんど観ないし、漫画もめったに読まない。私はなぜか、ビジュアル的な娯楽作品をあまり楽しむことができない。
その代わり、本を読むことには、とても魅力を感じている。
私にとって最大の娯楽は、好きな本を読むことだ。特に好きなのが、江戸時代を題材にした小説や本を読むこと。
本を読んでいる間は、本当にその世界に没頭できる。小説ならば、登場人物に感情移入し、世界観に浸りきって、現実とは切り離された完全な別世界を生きることができる。
それは、映画や漫画でも同じことなのだろうけど、大きく違うのは、小説は想像で楽しめるところにある。小説には映像や絵がないから、文字を読んで、自分でその場面を想像しながら読むことになる。その、想像する世界や登場人物の顔などは、読む人によって違ってくる。そこに、面白味を感じる。
それに、私にとって本というのは、大勢の人とその楽しみを共有するものじゃない。本は、映画やドラマのように、同時期に同じ作品を大勢の人が見るということはあまりない。今私が読んでいる江戸時代の本や小説を、同じ時期に日本中の多くの人が読んでいるということは、まずない。
その、楽しみを他の人と共有しない感じ。シェアしないところ。それが気に入っている。私にとって読書は、個人的で密やかな愉しみなのだ。それこそが、読書の魅力なのではないかと勝手に思っている。だから、一日の数少ない自分の自由な時間は、その密やかな愉しみのために、主に費やしている。
本以外では、写真を眺めることも好きだ。特に、レトロな建物の写真集などが好きで、よく眺めている。それから、江戸時代の浮世絵も好きだ。絵から伝わってくる情緒がたまらない。
いわゆる、懐古趣味というのだろうか。私は、レトロスペクティブなものにたまらなく魅力を感じる。古いもの、古風なものには目がない。
なんでこんなに古いものに魅かれるのか。それは、自分でもわからない。ただ、何百年前にも人が暮らしていて、私の祖先たちも、その中でたしかに生きていた。今とは何もかもがまったく違う時代の中で、生活していた。私が好きな江戸時代は、今よりはるかに野蛮で、生きるのには過酷な時代だったはずだけど、それでも、その当時の文化が今も歴史として残っているように、昔の人たちにも何かを楽しんだり、美しいものを愛でたりする気持ちは存在していた。そんな、当時の人々や世界に思いを馳せることに、たまらなくロマンを感じるのだ。
中でも好きなのが、日本の江戸時代後期の町人文化だ。時代劇などを見ても、この時代を舞台にしたものが多い。やっぱり、多くの人がこの時代に魅力を感じているからなんだろう。
この時代のことを想像すると、本当にわくわくする。だから、この時代を舞台にした大河ドラマや小説なんかが好きだ。本当は、当時はドラマのようなしゃべり方じゃなかっただろうし、実際とは違うところがあるのはわかっているけど、それでも雰囲気だけでも十分楽しめるのだ。
私は、つらいときは、江戸時代や昔の人のことを考えるようにしている。
当時は、今みたいな福祉や社会保障制度なんてなかったし、パワハラやモラハラなどという概念なども当然なく、現代からすると考えられないほど、過酷で暴力的なもので満ちた世界だったはず。難しい病気を治せるほど医療は発達していなくて、生命の危険にも満ちていた。だから、今より当時の人たちは、はるかに大変だったはず。それでも、当時の人たちは生きていたのだ、と。
それに比べれば、今の時代に生きている自分は、相当恵まれている。そう考えれば、それなりに大変なことがあっても、「まあ、江戸時代に生きているよりはましか」と思って、やっていけるのだ。
(『早坂さんは時代になじめない』
【短編集『静かなひとり暮らしたち』収録作品】より抜粋)