ポジティブなニュースが極端に少ない日本のメディア
考えてみると、テレビや新聞が伝えるニュースはなぜ、殺人や犯罪、事故といったネガティブな内容のものばかりなのでしょうか。そのような内容のニュースだけを伝えなければならないという決まりは特にないはずなのですが、なぜかそれが当たり前のようになっています。
もちろん、ほのぼのとした話題や明るい出来事よりも、犯罪や人の命に関わることのほうが重要だという考え方は理解できます。また、ニュース番組も放送時間が限られていますので、どうしても優先順位の高いそういった内容のものしか放送できないという事情もわかるのですが、私は明るいニュースやほほえましい出来事をもっと多く取り上げてもいいのではないかなと思いますし、むしろそのほうが社会にとっても有益なのではないかとも思います。
現在のようなニュースの内容だと、私たちは毎朝陰惨な事件や犯罪のニュース、経済のニュースを見て、なんとなく暗い気分や堅い気持ちになって仕事や学校へ行くことになります。そして家に帰れば、また同じようなニュースが流れていて再びなんとなく憂鬱な気分になる。楽しい気分になれる時間がほぼありません。そして、そのような日々が毎日続いていくのです。
こういった生活をしていると、その暗い気分が無意識のうちに毎日少しずつ少しずつ自分の中に蓄積されていって、それは長い目で見ればその人の精神状態に少なからず影響を与えるでしょう。
ニュースは基本的に世の中の悪い出来事を多く取り上げるので、私の知り合いではニュースを見てはいつも怒っている人がいます。すると、その人の周囲にいる人もその怒りの感情の影響を受けて嫌な気分になります。そういう姿を見てきて、私はずっと疑問を感じていました。
はたして、それが事実だからといってこうして人がニュースを見ては負の感情を蓄積させてばかりいることがいいことなのだろうか。ニュースを見て怒りや不安、絶望を感じるだけなら、むしろ実はよくないことの方が大きいのではないか、と。
メディアも視聴者も無意識に刺激を求めている
そもそも、どうしてニュースでは犯罪や事故などばかりが取り上げられるのかともっと深く考えてみますと、私はここにも人が刺激を求める本能が作用しているのではないかと考えています。つまり、犯罪や事故のニュースは刺激的だから人はそういうニュースを求めているのではないかということです。
そうすると、報道する側も視聴率が取れるということで、そういう刺激的な話題をますます多く取り上げます。ニュースを作る側とそれを見る側、どちらの利害も一致して今のニュース番組ができあがっているように見えます。でも、それでいいのでしょうか。今のままだと、社会にネガティブな感情と刺激中毒の人がただ増えていくだけという気がします。
ニュースがネガティブな内容のものばかりだとしても、現実の世界を知るためにはその事実を知ることが必要だと考える方はいるでしょう。たしかにそれはその通りだと思うのですが、しかし私たちの周りにある現実はネガティブな出来事だけなのでしょうか。そうではないはずです。面白くもつまらなくもない普通のことや、間の抜けたことや笑ってしまうようなことなど、私たちの生活は実際には様々な性質の出来事によって成り立っています。
ニュースというのは、そのようなドラマ性のない現実世界の中での特殊な出来事、ごく一部分を取り上げているものです。ニュースを見ていると毎日のように事件や事故が起きていて、恐ろしい世の中だという印象を受けますが、実際の私たちの身の回りの日常はそうでもないはずです。
ですから、ニュースを見るという行為には、悪い言い方をすると意図的にネガティブに歪められている現実を見させられているという側面があるものですから、ニュースの世界観を疑うことなくそのまま受け入れていると、実は偏った視点で世の中を捉えるということになる可能性があります。
さらに言うと、テレビや新聞でニュースを伝えるマスコミの立場の方々は、本来報道のあるべき立場から考えると、事実をできるだけ正確に客観的に伝える義務があるはずです。個人的な感情を乗せて伝えたり、少しでも事実を加工してしまえばその時点でそのニュースの内容が客観的なものではなくなります。
ところが、実際テレビのニュースなどを見ていると、純粋な素材に対してマスコミ側が加工を施して客観性が失われた報道が多く見られます。
一つ例を挙げれば、民放テレビ局の多くでは、事件があればそれがいかに悲惨なことかを強調するようにキャスターが深刻な顔をしたり、映像におどろおどろしい音楽を添えるなどの味付けをして報道しています。視聴者がその純粋な事実を受け取って自由に感じたり考えたりするのではなく、こういう風に受け止めなさい、深刻で恐ろしいことだと受け止めなさい、と番組やキャスターが強制してくるのです。これらは、はたして報道に関わる人としてのあるべき姿と言えるのでしょうか。
こうして、本来事実を客観的に伝える義務があるはずのニュースにおいても、報道する側の意図によって不必要に刺激が添加されているのです。
(『刺激から離れる生活』より抜粋)