正義が悪になる。怒りによる批判や正しさの主張の危険
怒りで歪んだ正義が、いつの間にか悪に変化する
少し前に当書房から『脱批判のススメ』という電子書籍(Kindle本)を出版しました。
他の国がどうなのか詳しくは知りませんが、私はずっと以前から日本では現実の世界でもネット上でも、批判や非難、悪口や中傷などの攻撃的でネガティブな言葉が随分多いという印象を受けていました。
もしかすると、批判病とでもいうような病があって、多くの人がそれに罹っているのではないかとすら思っていました。
そこで、そのことについて研究・考察した結果、そのような現状の原因など様々なことがわかりましたので、それを本にまとめました。(興味のある方はそちらをお読みください)
さて、『脱批判のススメ』などというタイトルの本を出したものの、私は人に対して「批判はやめましょう」などと積極的に働きかけたいとは思っていません。
それは、他人を変えようとするなどおこがましいという思いもありますし、そもそも他人を変えることなど基本的にできることではない、と思っているからです。
ただ、批判ばかりしている人に対しては、「人生、かなり損していますよ」とは思います。本でも書いていますが、それはあまりにデメリットが大きいからです。
そして、そのデメリットについて、一般的にはあまり知られていません。
この世の中には、批判が必要な時もあります。適切な批判が、社会や物事を良い方向へ変えるきっかけとなることがあります。
ただ、批判の元となる感情は主として怒りです。この感情を侮ってはいけません。
怒りは制御することが大変難しい感情であり、暴力の元にもなる非常に恐ろしいものです。それは、人の理性や冷静さ、平和な精神を破壊します。
批判と言っても「正しい批判」と「正しくない批判」があって、「正しい批判」の方は必要ではないか、という意見があります。
なるほど、たしかに正しい批判というものがあるのでしたら、それはきっと必要でしょう。
しかし、「正しさ」とは何でしょうか。
それは絶対的なものではなく、あくまで個人の主観によるものです。
一昔前には、戦争をして人を殺すことが正しいとされる時代がありました。接客業の人に対する世の中の悪質なクレーマーだって、自分の行為を正しいと思っているでしょう。
本人が「正しい」と思ってやっていることが、周囲の人にとっては悪質な迷惑行為になってしまっているという現象が、この社会では往々にしてあります。
非の打ち所がない正義を自分で主張しているつもりでも、その正義が怒りの感情によって歪んでしまい、傍から見たらむしろ悪になっていた、などという皮肉なことが実に多いのです。
何かを強く批判している人を傍から見ていますと、自分こそが正しいのだと周囲に認めさせたい承認欲求や自己顕示欲、自分が優れた存在であると思いたい慢心、自分と違う考えをもつ相手を打ち負かしたいという怒りや攻撃心、そういった良からぬ感情がその背後に透けて見えることが頻繁にあります。
そのような感情を内部に抱えている人が何かや誰かを強く批判したとしても、多くの他者から賛同を得ることは難しいですし、批判した相手を変えることもできないものです。
なぜなら、その批判をする人に対して、周囲の人も批判された相手も無意識のうちにその良からぬ感情に反発を抱き、そんな人間の言うことに心の底から納得して従うことができないからです。たとえ、表面上は一見正しそうなことを言っていたとしても。
外部の問題より自分の内面を見つめる方が重要
繰り返しますが、批判が必要な時もあるかと思います。
しかしながら、そこに強い怒りや先ほど挙げたような良からぬ感情が潜んでいるかぎり、たとえ相手を論破したりやり込めることに成功したとしても、それは本質的には相手も自分も幸福にはできないし、社会の幸福にも繋がらないでしょう。
社会や他人の問題点を指摘し正すことも大事なことではありますが、私はそれよりも、自分自身が抱える問題点と向き合い改善することの方が重要で、優先順位が高いと考えています。
外部にある問題を見つけることは割と簡単ですが、自分が内面に抱えている問題点というのは、かなり見えにくいものです。
この社会にはありとあらゆる問題が無限に存在しますので、たしかにそれを指摘したり、正したいと思う気持ちはわかります。
しかし、そのことが、気づいたら己が内部に抱えている問題から目を反らすための隠れ蓑になってしまっているということはないでしょうか。
自分の問題点は気づかない振りをして、社会や他人の問題ばかりをあげつらって怒っているというのは、客観的に見れば大分格好が悪く、おかしなことであるように感じます。
そうならないよう、私自身も注意したいと思っています。