辺りが急に暗くなってきていた。気づけば、気温もさっきよりもさらに低くなっているようだ。風の冷たさもあって、四月とは思えないほど寒くなっている。
これは、早く駅まで戻らないとまずいぞ。とにかく、今晩過ごせるところを探さないと。ネットカフェか、安いビジネスホテルみたいな場所はないだろうか。ずっと歩き続けてきたせいで、空腹も感じ始めてきた。
ところが、駅を出てからあちこち曲がったりしながら気の向くまま歩いてきたために、最初は背後に把握していたはず駅の位置が、今では正確にどちらの方向だったかがわからなくなってしまっていた。なんとなく大体こっちだろうと思って公園から歩いてきたものの、だんだん自分がどこを歩いているのかもわからなくなってきた。つまり、私は道に迷ってしまったのだった。
外は暗く、もう夜の気配で、周囲には見知らぬ住宅街。外に人の気配はない。街灯もあまりない。風が強く吹いている音だけが聞こえる。寒いし、急に心細くなってきた。
焦りを感じ始めた私は、とりあえず大きな道路を目指そうと、足早に歩き始めた。大きな道路に出れば、標識を見てここがどこなのか、駅はどちらなのかがおそらくわかるはずだろう。そして、人がほとんどいない住宅の間を闇雲に歩き続けているうちに、やがて、駅を出てきたときに最初に一度渡ったと思われる大きな幹線道路に出た。でも、暗くてはっきりとはわからないものの、最初に通ってきた場所とは大分違うようだ。
本当にあの道路なのか。近くに駅らしきものは見当たらないし、ここがどの辺りなのかも、もうまったくわからない。道路の上に標識があったが、聞いたことのない地名が表示されていて、駅のある場所は示されていない。
誰かに道を尋ねるか。地元の人に聞けば、きっと駅の場所を教えてもらえるだろう。でも目の前のこの大きな道路、車やトラックの往来はあるものの、歩道を歩いている人の姿はない。
困ったことになった。足も少し痛くなってきている。なんとかしなければ。
疲れた足を引きずるようにして大通り沿いを歩いていると、遠くのほうに大きな交差点が見えた。そこに、信号待ちをしている一人の人の姿が目に入った。スカートを履き長い髪をしているのがわかる。女性だ。その人は信号が青になると道を渡って、私が歩いているこの同じ歩道を、こちらに向かって歩いてくるようだった。その姿がだんだんと近くなり、おそらく三十代後半か四十代前半くらいの女性だということがわかった。小奇麗な感じの身なりをしていて、右腕にバッグをぶら下げている。仕事帰りの人のように見える。
久しぶりに人を見た気がした。そして、この人はたぶん地元の人だろうと思った。こんな時間にこんな場所を一人で歩いている様子から、おそらくそうだろうと直感した。
とにかくほっとした私は、女性がすれ違うほど近くまで来たとき、ためらうことなく話しかけていた。
「あの、すみません」
私の言葉に、女性の足が止まった。
「ちょっと道に迷ってしまいまして…。この辺りで一番近い駅はどちらでしょうか」
すると、女性は見知らぬ男に急に話しかけられたことを怪しむでもなく、すぐに笑顔になり、
「ああ、ここだと一番近いのは佐世田っていう駅ですよ。場所は…」
そう言って、一つの方向を指さした。「あっちの方なんですけど」
「あっち」
「はい。そこの道を右に曲がって少し行くと道が二つに分かれますから、それを左に曲がると少し大きな道路に出ますから、その道をまっすぐ七、八分くらいかな、歩くと駅前に出ますので、そこを右に曲がれば着きますよ」
「ああ~…」
そう曖昧な返事をしたものの、正直、私には覚えきれなかった。もう一度言ってもらおうかと思ったけれど、おそらくもう一度言ってもらったとしても覚えられない自信があった。そんな私の様子を察したのか、女性は、
「あっ。わかりにくかったですかね。じゃあ…」
そう言って、自分の携帯電話を操作し始めた。「ちょっと待ってくださいね」
それから彼女はしばらく携帯電話を見つめていたが、「うーん、遅いなあ」とつぶやいた。それから顔を上げると周囲を見回して、歩道に植物が植えてある場所へ行って屈んだ。そして、そこにある土に携帯電話の光をかざしながら、指で地図を書き始めた。私もそこへ移動し、屈んでそれを見る。彼女はその地図を指しながら、もう一度駅の場所を説明してくれた。言葉だけだとイメージできなかったものが圧倒的にわかりやすくなって、行くべき方向と道が今度はちゃんと理解できた。
「なるほど、わかりました」そう言って私は女性の顔を見た。「いやあ、本当に助かりました。ご親切にどうもありがとうございました」
立ち上がったあと、私は心からそう思ってお辞儀をした。そして顔を上げたとき、「あっ」と女性が私の左肩のあたりにすっと手を伸ばした。
「葉っぱがついてますよ」そう言って、小さな葉っぱを手に取り微笑んだ。
「えっ」
突然のことに、私は一瞬固まってしまった。
「あ、ありがとうございます」
いつの間に付けてしまったのだろう。畑の辺りで風に飛ばされてきたのかもしれない。
「何だか色々とすみません。どうもありがとうございました」少し動揺しつつ、私は再びお辞儀をした。
「いえいえ」女性は微笑む。
「それでは」
私たちはそこで別れ、女性は感じ良く微笑んだまま去って行った。
私は、女性に教えてもらった道順を忘れないように気をつけながら歩き出した。そして、言われたとおりに道を歩いていくと、十分もしないうちに、元来た駅前のあの小さなロータリーにたどり着くことができた。無事駅まで戻ってこられたことに、とりあえず胸をなでおろす。
かなり危ないところだった。この寒さの中、あのまま薄着で知らない土地をさまよっていたら、いったいどうなっていたことか。それを思うとほっとした。でも、この小さな駅周辺に泊まれそうな場所はとてもなさそうだ。ここから電車に乗って、一晩過ごせる場所がありそうな近くの大きな駅まで行くか。
交通系ICカードで改札を通り、駅のホームに入る。今の時間、ホームに人は私以外に一人しかおらず、駅から見える外はもうほぼ真っ暗だった。ベンチに座って、電車を待つ。そのときふと、線路を挟んだ向かいにある看板に、ビジネスホテルの広告を見つけた。ホテルの場所は、ここから二つ隣の駅と記されている。
腹も減っているし、かなり歩いてきたので疲れている。足も少し痛い。ゆっくり体を休めたいな。そのホテルの部屋、空いてないだろうか。広告には電話番号が記されているけれど、電話は持っていないし、このまま直接行ってみることにしよう。ビジネスホテルがあるくらいの駅だから、もしそこが空いていなくても、他に一晩過ごせるようなところがあるかもしれない。
ホームに、もうすぐ電車が来るというアナウンスが流れた。私はやって来た電車に乗り、さっそくその駅に行ってみることにした。
(小説『孤独な古賀富士男の失踪』より抜粋)