小金井書房ブログ

孤独、哀愁、静けさ

『結衣さんの東京一人暮らし』①

 

 

 十月の晴れ渡る青空を背景に、東京都心の高層ビル群を、下から眺めている。
 すごいなあ。
 あんなに大きなものを、本当に人間が作ったんだろうか。あんなものが人間に作れるということが、いまだに信じられない。
 高層ビルを作っている途中の様子をテレビで見たことがあるけど、作っている途中では、地上から何十メートルの高い場所にも建物の壁なんかなくて、よくそんな所で、怖がらずに作業ができるなあと思う。高い場所が苦手な私は、想像しただけで、ぞっとする。
 それとも、工事の作業をしている人たちだって、実は、怖いと思いながら仕事しているんだろうか。
 信じられないことって、他にもけっこうある。人間が宇宙に行くことができるというのも、わたしにはいまだに信じられないし、飛行機が空を飛ぶということだって、信じられない。
 何で、あんな大きな鉄の塊みたいなものが、空を飛べるのか。実際に飛んでいるんだから、科学とか物理的には普通のことなのかもしれないけど、そういう専門知識のないわたしには、ただただ感覚的にあり得ない、信じられない、としか思えない。
 高層ビル群をながめながら、そんなことを思い、感心する。
 今、このビル群の下を行き交っている大勢の人たちは、この人類の知恵が詰まった建造物のことなどまったく見向きもせず、興味もない様子で、足早に歩いている。みんな、何食わぬ顔で歩いているように見えるけど、実は、内心ではわたしと同じで、「ビル、すごいわあ」って思っている人もいるのかな。そうだったら、面白いな。
 今のわたしだって、他の人から見れば、都心で忙しなく働いている人の一人に見えているのかもしれない。
 いや、見えないか。
 まあ、いいや。
 秋の爽やかな平日の午後、しばらく大都会の散策を楽しんだあと、電車に乗って、家に帰った。

 

 東京に住み始めて、一か月と少しが過ぎた。
 わたしは東京の北の端の、埼玉県との境にある、小さな街のアパートに住んでいる。
 ここに住むのを決めた理由は、東京で暮らすにあたっていくつか物件を見た時に、家賃がまずまずで希望の範囲内だったのと、アパートの近くに川と土手があって、それが何となく気に入ったからだった。
 最初は、見知らぬ土地での生活にも、このアパートの部屋にも慣れなかったけど、今ではこのアパートは、それなりに愛着のある居場所。この東京で、どこかへ出かけたら帰って来る、わたしのホームになった。
 平日の夕方。電気をつけていない部屋の中が、暗くなってきた。
 窓を開けると、室内に閉じこもっていたものが解放されて、外の空気と匂いが入ってきた。色々な音も聞こえてくる。バイクが通り過ぎる音。宅急便のトラックが止まって、近所のインターホンが鳴らされる音。誰かがしゃべっている声。
 それらがなんとなく心地よくて、窓を開けたまま、しばらく部屋に寝そべって、耳をすます。
 遠くから、夕方のチャイムが聞こえてきた。
 この街では、夕方の四時半と五時に、街のスピーカーからチャイムが流れる。これを聞くと、夕方独特のたそがれた気分になるので、わたしはこのチャイムが気に入っている。だから、聞くことができるときには、できるだけ聞き逃さないようにしている。
 少し寒くなってきたので、窓を閉めた。
 さて。今から、スーパーに買い物にいくか。それとも、明日にしようか。冷蔵庫の中を確認してみる。
 そうだ、燃えるゴミ用のゴミ袋を買っておかないといけないんだった。
 そこで、まだ外が暗くなる前の夕方、スーパーまで自転車で出かけることにする。

 

 

(『結衣さんの東京一人暮らし』
 【短編集『静かなひとり暮らしたち』収録作品】より抜粋)

 

結衣さんの東京一人暮らし

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静かなひとり暮らしたち

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