『孤独な古賀富士男の失踪』 ③
とあるまったく知らない駅で、私は電車を降りた。
屋根のないホームに降り立つと、そこは、地方の名もない小さな駅という風情だった。この駅で降りる理由は特になかったけれど、窓から見えた周辺の景色に、なんとなく足が動いたのだった。
ドアが閉まり、今まで乗っていた電車が遠ざかっていく。ホームにぽつんと置かれた青いベンチがあったので、ひとまずそれに腰掛けた。一緒に電車を降りた何人かの人たちは、当たり前のようにホームにある階段を上っていった。そして、反対のホームにある改札から駅を出ていく。みんな地元の人や、いつもこの駅を利用している人たちなんだろうな。私は座ったまま、それを見送る。
電車が去り、静かになったホームでしばらくぼう然とする。ホームのそばにある木の上で何かの鳥が鳴いている。私は辺りを見回した。どこなんだろう、ここは。おそらく神奈川県辺りではないかと思うんだけど…。でもこの駅や、さっき電車から見えたこの周辺の風景は、とても私がイメージするような首都圏の神奈川県ではない。行ったことはないけれど、どこか東北とか四国の山の方みたいな、そんな感じの景色だ。でも、とにかくいずれにしても、まずはこの駅を出ないと。
私はベンチから立ち上がり、さっきの人たちが出ていった改札へ向かって歩き出す。階段を上って反対のホームへ下りると、改札は無人だった。
駅を出たところに、人のいない小さなロータリーがあった。その向こう側には、寂れた感じの喫茶店と床屋があって、静かに営業しているのが見える。どことなく哀愁というか、郷愁のある風景。床屋の横に、奥へと続く道が見える。そこを進んでみることにする。すると、大型のトラックがびゅんびゅんと行き交う、かなり大きな道路に出た。左右のはるか遠くまで、道が延びている。道路の向こう側、ずっと遠くには、午後の陽射しの中で、電車からも確認できた山々が見えた。
私は、道路を渡って向こう側に行ってみることにした。ところが、目の前にある横断歩道はいつまでたっても信号が青になる気配がない。見たところ、近くに道路を渡れそうな場所は他にない。結局、体感で五分以上も待ったあと、ようやく青になった。横断歩道を歩き始めると、渡り終えるか終えないうちに、すぐに信号が点滅し始めた。早い。ここは、この大通りを走る車のための道路なんだな。
道路を渡り終えて、山が見えた方面へ向かう道をまっすぐに歩いていくと、大きな工場が立ち並ぶ地帯が現れた。入口の門にある名前を見ると、聞いたことのある有名な企業で、そこの工場らしい。大きな煙突からは、黒っぽい煙が立ち上っているのが見える。そこを歩いていると、工場の入り口から私服姿の一人の青年が出てきて、私とすれ違った。仕事の休憩時間だろうか。携帯電話を見ながらにやにやしている。恋人とのメールでも見ているのか。
その工場地帯を抜けると、今度は辺りが畑になった。工場の大きな建物で塞がれていた視界が急に開けて、遠くまで見えるようになる。道の正面に広大な畑があり、正面奥にも左右にも、遠くまで広がっている。遠く前方に、先ほどから見えていた山々がある。こんなに広い景色を見たのは、いつ以来だろう。もしかしたら、初めてじゃないだろうか。
正面は畑なので、道を左へ曲がってみる。右手に広がる広大な風景を眺めながら少し行くと、左手にある住宅地の中に公園が見えた。それほど大きい公園ではない。ちょうどいい。ここでちょっと休むことにしよう。
ベンチが一つ目に入ったので、そこに腰掛ける。駅を出てから、それなりに歩いてきたので、足がけっこう疲れている。公園にある時計を見ると、午後四時五十五分だった。多分、駅から四、五十分は歩いたことになる。
夕方になって、駅を出てきた時よりも空は少し暗くなってきていた。公園内には時おり強い風が吹いている。こうしてじっと座っていると、長袖のポロシャツ一枚ではかなり肌寒い。今日の昼頃スーパーに行った時の格好のまま、防寒のことなんか考えもせずに家を飛び出してきてしまったのだ。しかたない。
ここから駅まで戻るには、またかなり歩かなければならないな。それを思うと、げんなりした気分になった。何も考えずにこんなところまで歩いてきて、私は何をやっているのか。自分でも意味がわからない。
目の前の小さな丘のようになっている場所で、小学校低学年くらいの男女の子供たちが、走ったり隠れたり、狂ったように歓声をあげて何かのゲームをしている。尋常ではないほど楽しそうだ。靴を脱いで足を休めながら、しばらくその様子をぼんやりながめる。
人間、あんな風に楽しめるものなんだな。
あそこまで興奮するほど楽しい気分になったことが、これまで私に何かあっただろうか。もう思い出せないけど、彼らと同じくらいの子供の頃、私にもあんな感情があったのだろうか。あんなに楽しいことが、この先、あるのだろうか。
残念だけど、私の人生にあるとは思えないな…。
あっ。
その時、寒さでズボンのポケットに手を入れて、ふと気づいた。携帯電話を持っていない。私服で外出するときは、いつもズボンのポケットに入れているのだが、急に家を出てきたから忘れてしまったのだ。そのことに気づいて一瞬焦ったが、よく考えたら、特に大きな問題などなかった。どうせ持っていたところで、連絡する相手なんていない。もともと、緊急の時などのために一応持っていただけのようなものだ。
さて、と。とりあえず、休んで足が少し楽になったので、ベンチから立ち上がる。夜になる前に、駅の方へ戻ることにしよう。家に帰る気はないけど、とりあえず、今晩過ごせる場所を探さないと。畑と工場しかないこの辺りには、そういう場所はなさそうだ。
近くで夕方のチャイムが鳴った。十七時か。
冷たい風が吹くなか、元来た駅へと向かってまたとぼとぼ歩き始めると、民家の庭先で、バドミントンをしている母と小さい娘の親子を見かけた。
知らない土地で日常生活を送る人たち。ふと、自分にはもう、こんな平穏な日常は訪れないのかもしれない、という思いに駆られた。どうしてだろうか。また仕事を見つけて働けば、元の社会生活に戻れるはずなのに。それなのに、なぜかもう二度と手に入らないような、そんな感覚がした。
畑で何かを燃やしている人がいた。煙が風でなびいて、その匂いが自分のところまで香ってくる。とてもゆっくりと道を歩いているお婆さんとすれ違った。
(『孤独な古賀富士男の失踪』より抜粋)