小金井書房ブログ

孤独、哀愁、静けさ

『後藤田さんの静かな生活』③

 

 

 散歩から帰ったあと、少し休んでから、夕飯の準備に取り掛かる。
 夕飯は毎日、時間をかけて作る。今日のメニューは、麻婆豆腐と、ほうれん草の胡麻和え。麻婆豆腐は、よく作る好きな料理だ。以前に料理本で作り方を覚えてから、よく作るようになった。
 完成した料理を、部屋に運ぶ。麻婆豆腐を、炊き立ての白いご飯と共に、味わって食べる。みじん切りにして多めに入れた生姜とにんにく、それから豆板醤の辛さが効いていて、実に美味い。
 ここでの生活を始めてから、私はよく、料理をするようになった。それまでは、料理をすることはほとんどなく、食事はもっぱら、外食やコンビニの弁当などに頼ってばかりだったのだが、この近くに外食ができるような店はないし、今は金もない。それで、しかたなく、料理をするようになったのだった。
 基本的にやることがない今の生活では、一日の三食の食事は、大きな楽しみの時間となっている。だから、食事をするときは、時間をかけてゆっくり味わうことにしている。
 元々はしかたなく始めたのだが、時間だけは余りある私にとって、料理はいい暇つぶしになる。これも、趣味と言ってもいいのかもしれない。初めて作る料理に挑戦したり、本を読んだりテレビで覚えて自分が作れる料理が増えていくのは、とても楽しいし、やりがいがある。こんなに楽しいことなら、何で今までやってこなかったのだろうと後悔しているほどだ。
 私は、数年前に本屋で購入した、五百通りもの料理のレシピが紹介されている、分厚い雑誌を一冊持っている。ここに来てからは、時間にまかせて、それを何度も読み込んで、そこに載っている料理を試してきた。なにしろ、五百もあれば、一通りの料理は掲載されているので、これ一冊で大変助かっている。
 料理をするようになってから気づいたのだが、実は料理には、こうしなければいけないという絶対的なルールがあるわけではない。基本的には、自由でいいようだ。
 それを知って、拍子抜けしたというか、かなり気が楽になった。なんというか、料理というのはもっと小難しいもので、勉強して沢山の決まり事を覚えて、修行を積み重ねないとできないものだと思い込んでいたからだ。
 だから、その誤解が解けてからは、料理をすることが楽しくなった。

 

 夕飯を食べ終えた。一日の楽しみの時間が終わる。
 食事の後片付けをして、そのあとシャワーを浴びた。
 風呂場から出て、洗面所でタオルで身体を拭いていたら、開けている窓の網戸から、涼しい風が入ってきた。虫たちの鳴く声も聞こえてくる。
 Tシャツとハーフパンツを着て、タオルで髪を乾かしながら、テレビの前にある一人掛けのソファにどかっと座り込んで、テレビをつける。ニュース番組で、国内の有名な大企業で不正が発覚した、という話題を取り上げていた。
 今夜は、このあと将棋の研究をしようと思っていたのだが、夕方の散歩で疲れたのか、いつもより早く眠くなってきたので、早めに寝ることにした。

 

 

 翌日は雨であった。天気の影響で、昨日までの暑さも、少し和らいでいる。
 今日は、午後の散歩をするのはやめて、昨夜できなかった、将棋の研究をすることにする。
 将棋は、この年齢になるまで、ほとんどやる機会はなかった。子供の頃、祖父の家に将棋の盤と駒があって、それで多少遊んだ記憶がある程度で、当時、少しはルールを覚えていた気がするが、大人になってからは、ほとんど忘れてしまった。
 ただ、大人になってからも、たまにテレビの将棋番組などを見かけると、プロの棋士というのは、なんとなく格好いいものだな、と感じていた。子供じみた感覚かもしれないが、頭脳で戦っている感じが、格好良く思えたのだ。戦術を駆使し、自分の頭脳を最大限に発揮して勝負に勝つのは、とても達成感を味わえそうだし、楽しそうだなと、なんとなく思っていた。
 だから、大人になってからまた将棋をやったら面白いのではないかと、心の片隅では思い続けていた。
 しかし、決められた駒の動きやルールを覚えるのがけっこう面倒くさく、また、仕事をしていた時は、毎日疲れてぐったりしていて、休みの日に小難しいことに挑戦しようという気になれなかったというのもあり、本格的に覚えるタイミングがなかった。
 まあ、結局、そこまでの情熱はなかったということなのだろう。
 ところが、ひょんなことから今のような境遇になり、時間だけは余るほどある。暇を潰すならば、むしろ、小難しいことぐらいのほうがちょうど良い。将棋を覚えるならば、今しかないだろうということで、ついに一念発起した。
 それで、本屋で、将棋のルールを解説している一番わかりやすそうな本を見つけて、時間をかけて、少しずつ読み始めた。やはり、覚えることは多くて少し大変だったけれど、昔やったことがあるので、少しは思い出せる部分もあった。
 そして、一通りのルールを覚えると、やる気は俄然出てきた。
 といっても、近所に対戦できる人間はいないので、普段はネットで将棋を指している。
 ルールを覚え始めの頃は、弱いコンピュータを相手に対局を重ねた。たとえ相手が弱くても、勝った時は、ものすごくうれしかった。それから、ある程度慣れてきたところで、今度はもう少し強いコンピュータを相手にしたり、ネットで対戦相手を探して、人間を相手に指したりするようにもなった。
 対戦に負けるとやはり悔しいが、たまに勝つことがあると、強烈な達成感と、高揚した気分を味わうことができた。
 おだやかで、変化のない現在の日々の中で、将棋は、私が一番情熱を注いでいるものといえるだろう。

 

 

(『後藤田さんの静かな生活』
 【短編集『静かなひとり暮らしたち』収録作品】より抜粋)

 

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静かなひとり暮らしたち

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