(『脱批判のススメ』 第3章「批判する人の特徴」より抜粋)
当事者から遠い人ほど安易に批判をする傾向
仮に、世の中には「プレイしている人」と「プレイしていない人」の二種類がいるとします。
プレイしている人とは、スポーツで言うなら実際に試合をしている選手や監督のことで、プレイしていない人というのは、観客やテレビでその試合を見ている人などの、試合をしている当事者以外の人のことです。
(中略)
批判をする人というのは、一般的にプレイしていない側の人に圧倒的に多いという特徴があります。
さらに言うと、プレイヤー(当事者)から遠い立場の人ほど強い批判をする傾向が見られます。
なぜそういうことになるのかというと、当事者と立場が近い人は当事者が抱えている苦労がわかるし、いざという時は自分も当事者の立場になる可能性があるので、プレイヤーに対して安易な批判はしません。
ものごとにはプレイしている人にしか分からない困難や領域があります。プレイヤーに近い立場の人はそれを知っていますので、プレイしている人をやたらと批判したりこき下ろしたりはしません。
ためしにプロ野球選手を想像していただきたいのですが、プロ野球選手は自分と同じ仕事をしている他の人を簡単に批判したりはしないでしょう。
例えば味方の誰かがエラーをしたとしても、それを強く批判したりなじったりは基本的にしません。
なぜなら選手がプレッシャーの中でプレイする難しさを知っているし、自分だっていつエラーするかわからないからです。
野球中継の解説者も、元選手でありプレイヤーに近い立場の人が多いので、やはり安易に選手の批判はしません。
たまに、はるか昔に現役を退いた高齢の元プレイヤーが毒舌を振り撒いているのを見かけますが、これはまさにプレイヤーから遠い位置にいる人ほど批判が強くなるという例です。
プレイしていない人による上から目線の批判は虚しい
スポーツと政治。
この二つは世の中で批判や野次が激しい分野でありますが、その批判をしている多くの人はプレイする当事者の立場にはありません。
当事者から遠い立場にあるため、安全な立場にいて責任もありませんから、簡単に何でも批判してしまいます。
そのため、どんなに一見鋭く見える意見であっても、ほとんどの批判や批評はどこか空虚なものに感じます。
土俵に上がらなければたしかに誰からも批判されることはありませんし、自分は安全な場所にいながら相手だけを批判できて無敵感覚を味わえます。
しかし、その場所にいるかぎりプレイする側の実際の状況、本質的なことは理解できないままになります。
あるものごとについての情報を得て批評や批判をしていると、その分野について詳しく賢くなった気分になれます。
でも、アウトプットしていないという点では、最初から詳しくない人とそれほど変わりません。
私たちはテレビを見て政治やスポーツの批判をしていると、つい上から目線でプレイヤーよりも上の立場になったかのような錯覚を味わいがちです。
でも、自分が実際にプレイしているわけではないし、できるわけでもない。
そのことは忘れずにいたいものです。