小金井書房ブログ

孤独、哀愁、静けさ

『結衣さんの東京一人暮らし』③

 

 

 アパートに帰ってきた。部屋の電気をつけて、買ってきたものをそれぞれ冷蔵庫や棚にしまう。それから、夕飯の分の米を研いで、炊飯器にセットする。
 思えば、東京というところは、実際に住むまで、かなり不思議な存在だった。
 わたしの地元の青森と同じ日本だけど、テレビでしかその存在を知らなかった、東京。テレビには、やたらと東京ばかり出てくるし、よく目にする芸能人や有名人も、みんな東京にいるらしい。
 わたしは今まで、一度もそういう人たちを現実に見たことがなかった。だから、人には言えなかったけど、芸能人や有名人というのは、本当にこの世にいるのだろうか、と少し疑っていた。
 いや、いることはいるんだろうけど、どこか、現実感がないというか。言ってみれば、東京というのは、テレビでしか見ることのないフィクションの世界で、芸能人や有名人というのは、その架空の世界の登場人物たち。わたしにとっては、そんな感覚だった。
 でも、日本中のあらゆる地域から、大勢の人が、そんな東京に出ていっている。地元のわたしの周りにいた人たちも、高校を卒業して、多くの人が東京の専門学校や大学へ行ったり、就職して働きに出ていった。
 東京って、そんなにいいところなのだろうか。
 周りの人たちと違って、なぜかわたしは、そこまで東京に憧れを抱くことがないまま、これまで地元で暮らしてきた。でも、そんなわたしが、ひょんなことから、こうして東京に住み始めることになったのだった。
 あんなに興味がなかったのに、どうしてわたしが今、東京にいるのか。あらためて思うと、不思議だ。ただ、成り行きによって、わたしは今、ここにいる。
 そもそも、わたしは、別に夢とか大それた目標があってここに来たわけじゃない。東京で何かを成し遂げたいなんてことも、思ってない。
 でも、わたしのようにふらふらした人間は、田舎では目立つので、居づらさを感じていた。
 同世代の人たちは、高校を卒業したあと、学校へ行くか就職するか、ほとんどは何かしらの道へ進んでいった。一方わたしは、何となく高校まで通わせてもらったものの、そのあと、どうすればいいのかまったくわからなかった。
 目標がないので、特に大学や専門学校に行きたいとも思えなかったし、生きていくにはお金が必要だけど、就職活動をしてフルタイムで働くほどの気力もなかった。それで、しばらくは単発のアルバイトをしたり、何もせずにふらふらしていたけど、だんだん実家にも居づらくなってきたので、そこで、なんとなく、東京に行こうと思い立ったのだった。
 東京には仕事がたくさんあるだろうし、アルバイトをすれば、しばらくはなんとかやっていけるだろう。なにより、東京に行けば、この居心地の悪い場所から逃れることができる。
 そこで、わたしは確固たる目的などなく、とりあえず東京に出てきた。そして、生活をしながら、この先のことを考えている。
 いや、でも正直、そんなに先のことは考えてない。これからのことは、成り行きにまかせようと思ってる。
 そんな生活は駄目だ、と否定する人もいるだろう。何か目標を持ち、将来を見据えて、それに向かって頑張らなければいけない、と。学校の教師もそんなことを言っていたし、周囲にも、そうすることが正しいという空気が、なんとなくあった気がする。
 でも、持てと言われたって、わたしには目標なんてないんだから、しかたないじゃないか。

 とりあえず今は、そんな無言の圧力から逃れることができた。
 そうして今、東京で暮らしているわけだけど、住んでみてまず思ったのは、東京はフィクションじゃなかった、ということだ。架空の世界のように見えていた東京は、当たり前だけど、実在した。人にはとても言えないけど、これは、わたしの中では、けっこう画期的なことだった。
 でも、まだ芸能人や有名人は、一度も見かけてない。だから、そういった人たちも架空の人物じゃなくて実在する、という実感は、まだ得られていない。いずれ、そういう人たちも目にすることができる時が来るんだろうか。
 東京が実際に存在することが確認できたんだから、同じように、いつかは、有名人の存在も確認することができる時が来る可能性はある。

 

 

(『結衣さんの東京一人暮らし』
 【短編集『静かなひとり暮らしたち』収録作品】より抜粋)

 

結衣さんの東京一人暮らし

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静かなひとり暮らしたち

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